総研大 文化科学研究

論文要旨

礪波今道年譜稿

文化科学研究科・日本文学研究専攻 一戸 渉

キーワード:

礪波今道(辻丹楓)、上田秋成、加藤宇万伎、建部綾足、本居大平、上方学芸史、越中学芸史、漆工史、近世中期、伝記研究

本稿は、近世中期を生きた文人にして漆工家である礪波今道(享保七年〔一七二二〕~文化二年〔一八〇五〕)について、年譜形式を用い、その伝記を詳細に明らかにしたものである。

従来の研究において、礪波今道は上田秋成の友人という以外には、ほぼ全く未詳の人物で、その業績についてもごく部分的な言及があるのみである。そこで本稿では、俳諧、漢詩、和歌、そして古典注釈から韻学にまで及ぶ彼の多彩な文事、及びそれに付随する諸人物との交友、更に彼の生業であった漆工芸に至るまで、その諸活動を現時点において可能な限り網羅的に記述することを試みた。

以下、本稿で明らかにし得た主な事項について略述する。

まず、未紹介の資料である「筏井甚右衛門旧記」に拠って、彼が享保七年に越中礪波郡辻村(現高岡市辻)の百姓家に生まれ、須田村長念寺へ養子に入ったが後に実家に戻され、分家の上、射水郡高岡御馬出町に移住したことなど、今道の出生をめぐる伝記的事項について整理した。

彼の学芸に関しては、若年期の蕉風俳諧への傾倒から、壮年期における京都遊学中に建部綾足の片歌説の賛同へと変節を遂げたこと、その綾足門から加藤宇万伎門へ移った県門末流の和学者で秋成とは同門であったこと、また古文辞格調派風の漢詩を善くし、更には富森一斎について韻学を学ぶなど、当代流行の和漢諸学を修した人物であったことを明らかにした。またそれに付随して、上掲の人物の他に、市中庵梅従、上田秋成、本居大平、橋本経亮、内池益謙、川口好和、山本封山などといった京坂の文人諸家との交友関係について整理し、上方学芸史上に今道を位置付けることを試みた。

今道の漆工については、高岡御車山、及び放生津曳山や伏木曳山における人形及び漆工の作例を、先行研究に紹介のある箱書や口碑などを参照しつつ、制作年代順に整理し、また個人蔵の辻丹楓(今道の別称)作として伝わる漆器類をも含めて、現在確認し得る全ての作例を網羅的に記述した。その際、「辻丹甫」の作と口碑に伝えられる諸作品と、今道の作との間における作者認定上の問題点についても整理を行った。加えて師綾足との間では、今道の製作した漆器が雅交の具として利用されていた可能性について、下郷学海宛綾足書翰などに基づき、指摘を行った。

越中高岡の地における今道の学芸については、文化十三年三月刊『俳諧狐の茶袋』所収の今道の句及び文章から、当地に明和年間頃より形成されていたと思しい雅壇との関わりについて整理した。そこでは寺崎蛠洲や富田徳風ら、今道よりも一世代後の高岡雅壇の構成員による言説に基づいて、今道が当地の雅壇経営に少なからず寄与していただろう可能性について指摘した。

以上の指摘を通じ、本稿は学芸と工芸という二つの領域に渡る礪波今道の業績を、近世期の上方及び越中学芸史、また近世工芸史の中に位置付けることを試みたものである。