総研大 文化科学研究

論文要旨

モノに執着しないという幻想

―モンゴルの遊牧世界におけるモノをめぐる攻防―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 地域文化学専攻 堀田あゆみ

キーワード:

モンゴル遊牧民、モノ、所有権、交渉戦術、情報管理

本稿では、必要最低限のモノだけで暮らしモノに執着しないといったモンゴルの遊牧民に対する言説によらず、現地調査によって得られた知見をもとに、彼らのモノをめぐる世界を明らかにする。遊牧が盛んなアルハンガイ県において、遊牧民の生活世界にあるモノの悉皆調査を行った結果、一世帯に373品目1539点のモノが存在していることがわかった。特徴的なのは、譲渡や貸借によってモノが生活圏を越え頻繁に移動することである。

とりわけ貸借は広く行われておりその対象も多様である。所有者から得た利用権によって借り手は自由に使用できる。廃棄や第三者への譲渡は許されないが、利用が終了しても所有者が取りにくるまで手元に留め置いてもかまわない。なぜなら遊牧民にとって、モノの所有とは占有を意味しないからである。切迫した必要がなければ手元に無くてもよく、入用の際に返却を求めるか、別の家から拝借すればよいと考えるのである。

しかし、常に気前よく要求に応じるわけではなく、譲渡や貸借をめぐって熾烈な駆け引きが展開される。所有者も要求者も様々な交渉を用いて自己主張を行う。所有者による要求の拒否はいずれ我が身に跳ね返るというリスクを伴うため、交渉で妥協点を探りあうことが重視される。また、社会関係を損なわずに交渉を有利にすすめるための戦略として情報管理が行われる。その一つが隠蔽工作であり、生活世界に存在するモノの三分の二を隠すことで、モノに関する情報の漏洩と物理的なアクセスを阻んでいる。他方で、見せることを前提に情報操作を行うこともある。あえて目に付く場所にモノを置き、アクセスさせることでケチではないという実績を作りながら、隠蔽しておいた残りを家族だけで利用するのである。

モノに執着する一方で必ずしも占有を意図しないという事実から、遊牧民はモノの所有には執着しないと言える。彼らにとって重要なのは、入用の際にモノが利用できるということであり、必要なモノが誰の所にあるかという情報である。モノは交渉によって入手できるため、全てを自らの所有にしておく必然性がないのである。つまり、本当に執着しているのはモノの情報であると言える。