総研大 文化科学研究

論文要旨

ブルガリアのポスト社会主義期におけるヨーグルトの表象

―トラン地域の博物館展示を事例として―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 比較文化学専攻 マリア ヨトヴァ

キーワード:

ブルガリア、ポスト社会主義期、乳食文化、ヨーグルト、博物館展示、表象

本論文の目的はブルガリアのポスト社会主義期におけるヨーグルトの表象について、トラン地域の博物館展示を事例として、その特徴を明らかにすることである。また社会主義とその崩壊、EU加盟という時代の荒波を経験したブルガリアが、ヨーグルトに対してどのような意味付けをおこなっているのかを考察することである。

もともと、トラン市のヨーグルト博物館は地域振興を目的として2006年に設立された。しかし、展示内容としては、地域の乳食文化の紹介ではなく、“ブルガリアヨーグルト”の輝かしい歴史を全面に押し出し、国際舞台におけるその高い評価の主張を試みているようにみえる。また、本博物館で語られるヨーグルトの歴史からは、社会主義という過去は完全に消去されており、現代社会における「健康食品」や「長寿食」としての価値が強調されている。結果的に、本博物館の展示からは、ブルガリアが西欧と同様の価値観を共有しており、乳酸菌研究の発展や現代社会の健康的な生活に大きく貢献していることが伝えられている。このような表象は先行研究が示してきたような旧ソ連圏における「西欧製」(資本主義的味覚)という象徴的価値の低下や「ソビエト製」(われわれの味)がもたらす郷愁的価値の上昇といった食の表象とは明らかに異なっている。

東欧諸国の食を取り上げた文化人類学的研究は、民主化以降の自国の食の再評価について社会主義への郷愁や資本主義に対する失意から生じるものとし、それをナショナリズム的な反応や「オスタルジア現象」(東へのノスタルジア)と捉えてきた。しかし、ブルガリアにおけるヨーグルトの表象の事例からは、社会主義・資本主義、西欧・東欧を問わず、「長寿」や「健康」のような人間の普遍的価値が全面的に押しだされていることがわかる。そして、ヨーグルト博物館の展示においても、社会制度や時代を超えた「長寿食」としての“ブルガリアヨーグルト”の姿が浮かび上がってくる。

そこで、本稿はブルガリアの博物館展示におけるヨーグルトの表象を「ナショナリズム的な反応」や「オスタルジア」ではなく、自己肯定化への意識的な試みとして捉える。また、博物館展示を第三者の視点から「評価」するのではなく、それを事例として民主化以降のブルガリアにおいてヨーグルトがいかに自己規定のために重要な存在であるかを示す。