総研大 文化科学研究

論文要旨

『枕草子』における漢語の表現

―「三条の宮におはしますころ」の章段を中心に―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻 張  培華

キーワード:

五月五日、端午節、青ざし、花や蝶や、白氏文集、感傷詩

長保二(一〇〇〇)年二月二十五日、藤原彰子(九八八〜一〇七四)は、新たな中宮となり、元の中宮定子(九七七〜一〇〇一)は、皇后に代わった。同年十二月十六日、皇后定子は三番目の皇女を出産の後、まもなく崩御した。わずか二十五歳(『日本紀略』)、あるいは二十四歳(『権記』)であった。

この年、五月五日の端午節の頃、皇女姫宮(五歳)の脩子内親王(長徳二(九九六)年御生誕)、皇子若宮(二歳)の敦康親王(長保元(九九九)年御生誕)のため、菖蒲の輿、薬玉などが贈られたものの中に、「青ざし」という物があり、清少納言はそれを取って艶なる蓋に載せて、皇后定子に献上した。懐妊三ヶ月の皇后定子は、清少納言の心意を受け取って、すばやく一首の和歌「みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける」と詠んだのである。そして清少納言は「いとめでたし」と賛美した。

該当する章段の年次は明確で、重要な章段と認められ、さまざまな視点から論じられてきた。しかし、まだ幾つかの問題が残される。

例えば、清少納言が取った「青ざし」という物については、上代から平安までの作品にはまったく見られないため、いまだに定説を見ず、『食物知新』に関わる語彙との指摘はあるものの、適切であるとはいえない。また、清少納言は「青ざし」を硯の蓋にのせて、皇后定子に献上した。なぜ清少納言は「青ざし」を定子に奉ったのか。いったい「青ざし」という物は、具体的にどのようなものなのか。さらに皇后定子は「青ざし」を受けて、すばやく「花や蝶や」を歌に読み込んでいるが、万葉から平安まで「蝶」を和歌に詠むことは極めて少ない。いったい皇后定子は何の比喩を念頭におかれているのか。

本稿では、これらの二点を中心として、漢語、漢文学の影響を軸に据えて、改めて考えてみたい。