総研大 文化科学研究

論文要旨

四国東部における灌漑水田農耕の
受容期の年代について

―炭素14年代法を用いた地域事例―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本歴史研究専攻  近藤  玲

キーワード:

炭素14年代法、弥生時代暦年代、暦年較正年代、灌漑水田、集落景観、徳島

灌漑水田農耕の受容期の年代について、炭素14年代法を用いた分析を、四国東部の徳島における集落遺跡を対象として行った。

炭素14年代法を用いて、徳島市三谷遺跡、庄~南蔵本遺跡のシカ骨、オキシジミ貝殻、土器付着炭化物、杭等の木製品の年代測定を行い、発掘調査から得られた考古学的な所見を加味し、徳島における弥生時代前期の暦年較正年代を求めた。

前期前葉の徳島凸帯文土器Ⅳ-2期(板付Ⅱa併行期)は、700–600cal BCのうちの40~50年間、徳島Ⅰ-1期(板付Ⅱa併行期)は、700–600cal BCのうちの徳島凸帯文Ⅳ-2期に後続する50年間、徳島Ⅰ-2期(板付Ⅱb併行期)は、600–500cal BCの100年間、徳島Ⅰ-3(前半)期(板付Ⅱb併行期)は、500–400cal BCの100年間、徳島Ⅰ-3(後半)期(板付Ⅱc併行期)は、400–350cal BCの50年間となる可能性を指摘した。

この時間幅で、徳島における稲作受容期の集落景観を復元した。暦年較正年代を基準にした時期ごとに見てくると、稲作が伝わった当初、すぐに稲作だけに切り替わったのではなく、40~50年ほどは、狩猟、漁労、採集に雑穀とマメ類を栽培していた従来からの生業に、新たにコメ栽培を加えて試行錯誤を繰り返している様子が窺われる。その後、灌漑水田の適地を探すように集落を移動させて、河川の状況を見ながら水田を徐々に開田し、前時期よりは、少し集落の人口を増やしつつ、また、約50年この状態が続いていった。この段階を経て、600cal BC頃から、大規模地形改変を試み、本格的に灌漑水田を造成し、2~3棟の竪穴住居で構成される集落を営んでいた。この時期、人々が、灌漑水田を志向する傾向を読み取ることができるものの、畑も作り、多様な農耕を行っていたことが看取される。こうした状態が約200年、400cal BC頃まで続いていくので、当地にあっては、灌漑水田の本格的な施工によって、ただちに集落の構造に変化は認められず、稲作農耕による社会変化は、非常に緩慢であったと考えられる。そして、集落の様相が大きく変化するのが、次の段階の350cal BCまでのおよそ50年間である。複数ある居住域のそれぞれには、絶えず竪穴住居が2棟以上存在し、集落全体では10棟前後となり、以前よりは格段に集落規模は大きくなって、前時期の2倍以上、人口が増加していると推定される。