総研大 文化科学研究

論文要旨

藤原師通の和歌について

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  花上 和広

キーワード:

藤原師通、藤原師実、院政期、関白、和歌、作文会

藤原師通は、京極関白藤原師実男で、母は右大臣源師房女麗子である。摂関家御堂流の藤原道長の曾孫にあたる人物で、従一位関白内大臣にいたるが、康和元(一〇九九)年六月二十八日、三八歳の若さで亡くなる。師通の生きた時代は、白河上皇の院政期にあたり、上皇は親政を推し進め、近臣藤原通俊が『後拾遺和歌集』の撰集を行うという時代であった。

王朝和歌から中世和歌への展開を解明するには、この白河院政期の諸活動を明らかにすることが課題といえる。摂関家の和歌活動の中心は師実から師通へと移っていくが、師通の和歌活動を明らかにすることで、院政期における摂関家の和歌活動の動向が見えてくると考える。

本稿は、師通の詠んだ和歌一首一首について、詠まれた場や詠作年次また同時詠、交友関係等の考察を通して、歌人としての師通の活動を論ずるための基礎資料として検討したものである。

考察を通して、次のことがわかった。年齢と官職の視点から詠まれた歌の数を見ると、

一一~二一歳(延久四(一〇七二)年正月~永保二(一〇八二)年 元服~内大臣になる前年まで) 四首

二二~三三歳(永保三(一〇八三)年正月~嘉保元(一〇九四)年二月 内大臣就任~関白になる前月) 七首

三三~三八歳(嘉保元(一〇九四)年三月~康和元(一〇九九)年 関白就任~亡くなる年) 一首

年次未詳歌 一首

となる。関白になってからの詠歌が非常に少ないことが指摘できる。次に和歌の詠まれた状況等を考慮して、題詠歌・歌会等の歌・贈答歌に分けて見ると、

題詠歌 二首(⑦ ⑬)

歌会等の歌 五首(① ② ③ ⑧ ⑫)

贈答歌 六首(④ ⑤ ⑥ ⑨ ⑩ ⑪)

となる。師通は氏長者や関白といった立場の人の割には、歌会や題詠歌などの晴の歌が少ないように思われる。贈答歌が多いのは、師通に関わりのある周辺歌人が、師通詠を自分の家集におさめたのが理由として考えられる。

師通は文芸活動においても一の人としての振舞をしなければならなかったはずである。その際和歌を詠むことは必須と思われる。平安後期の和歌について、橋本不美男氏は「この期の和歌は、管絃・作文とゝもに、宮廷貴族として宮廷生活を行ふ上に、必須の技能として位置づけられる点から出発する。………和歌は、特殊の文芸としてゞはなく、一つの貴族の職能として、宮廷生活圏のなかに、礎地をもつたことにならう」(『院政期の歌壇史研究』六頁 武蔵野書院 昭和四十一年)と述べている。このような状況の中、師通は「学問」の人で和歌より漢詩に重きをおいていた。師通の詠作が少ない理由の一つとして、和歌よりも漢詩の方に心が傾いていたからなのであろう。『後二条師通記』『中右記』等を見ると、師通は内大臣になった永保三年以降亡くなる康和元年まで、自邸で作文会を十六回開いている。それにくらべて自邸での和歌会は『後二条師通記』では二回である。

歌を交わした人物をみると、父師実をとりまく人たちとの関係の中で和歌活動が行われたように思う。女流歌人では師実姉四条宮寛子に仕える康資王母や師実女房でのちに令子内親王に仕えた肥後などがあげられる。男性歌人では、源経信大納言があげられる。