総研大 文化科学研究

論文要旨

近代日本の台湾原住民に関する二元的思考の提起

―宇野浩二「揺籃の唄の思ひ出」を例にして―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻  簡  中昊

キーワード:

台湾原住民、二元論、宇野浩二、生蕃、野蛮人

近代化とともにもたらされた「適者生存・優勝劣敗」という社会進化論を標準として、近代日本は自我と他者に対する認識とその比較を始めた。「野蛮と文明」の二元論という命題はこの前提の下に設定された。とくに台湾領有とそれに付随した台湾原住民への研究を通して、近代日本における人類学・民族学が成立した。それらの研究をはじめとして、台湾原住民=「生蕃」即ち「野蛮人」という図式は繰り返し現われ、近代日本における台湾原住民への認識・言説に定着してきた。一方、原住民を「野蛮」と位置づけ、日本は自国をその対極の「文明」と定位した。

近代の日本人作家による植民地台湾に関連した作品では、基本的に「欧米」を抜きにしている。その代わりに、日本を「文明」側の唯一の代表として登場させた。一方、「文明」側の対面に立つのは、「野蛮」側を代弁させられる台湾原住民である。日本人作家による台湾原住民に関する最初の作品とされるのは、宇野浩二の「揺籃の唄の思ひ出」である。台湾に行ったことがなかった宇野は「文明と野蛮」という命題に対して、作中で彼なりの思考を試みた。

宇野は作中で「文明」を「大人」と設定し、さらに「文明側」の男性を「理性」の象徴とし、女性を「感情」の象徴とするという構図を作った。その一方で、台湾原住民に育てられた日本人少女を「野蛮側」の代表とする。作中では主人公の少女はある程度の「理性」を潜在的に持っていることが読み取れるが、最終的に少女は「感性」の表現である母の「子守唄」を通して、「文明側」と繋がるにいたった。「子守唄」を通して、宇野が強調したいのは「愛」の価値である。

また、「文明・野蛮」と「男性・女性」をマッチアップするのは従来の植民地研究の二元論に対する主流的見解であるが、「揺籃の唄」でジェンダー意識を表現するのは「文明と野蛮」という対立項ではなく、「文明側」の内部にある「理性と感情」の並立項と考えられる。さらに「野蛮」の代表である少女を「潜在的理性」的人物として描くと同時に、「野蛮側」の内実を「理性」概念の枠に限定されるものとして定義したのである。この点からみると、宇野は「野蛮」の内実を把握できない。とはいえ、宇野はこの「文明と野蛮」という二元対立の命題に挑戦する最初の作品によって、それ以降の日本人作家が回避できない問題意識を作り上げたと言えよう。