総研大 文化科学研究

論文要旨

租借地都市大連における『満洲日日新聞』の
役割に関する一考察

―「大連彩票」の内容分析から―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻  栄   元

キーワード:

大連彩票、『満洲日日新聞』、『遼東新報』、『大連新聞』、関東州

『満洲日日新聞』(以下『満日』と略す)は1907年11月3日に関東州租借地の大連で創刊された。大連において最初に創られた日本語新聞は末永純一郎の『遼東新報』(1905年10月創刊)である。『満日』創刊後、大連の新聞界は『満日』と『遼東新報』によって二分されていた。その後、1920年5月に、『大連新聞』が創刊され、三紙鼎立の状態となった。しかし、それは長続きせず、『満日』は1927年10月と1935年8月に『遼東新報』と『大連新聞』を相次いで合併することにより、大連さらに中国東北地域の日本語新聞界において独占的な地位を築いていた。

『満日』には、大連を中心とする中国東北各地方の日本人及び中国人社会の動向に関する記事が多岐にわたって掲載されているだけでなく、日本国内のメディアでは得ることの出来ない情報も多く記されている。『満日』は、1907年から1945年まで発行され、その約40年間の発行時期は日本の満洲経営と一致している。この意味で『満日』は、日本の満洲経営、またこの時期の中国東北地域社会の実態を解明する上で、高い史料的価値を持つものであると言える。

また、『満日』は現存する大連で刊行された定期刊行物の中ではほぼ完全な状態で保存されている。これらの点から総合的に判断すると、『満日』の記事によって中国東北地域における日本人と中国人社会の世相や動向の把握などで、これまで見落とされてきた史実を掘り起こすことができると思われる。

本稿は、これまでほとんど注目されてこなかった大連彩票(富籤)問題を取り上げ、『満日』の紙面がこの問題をどのように報道しているかを検証し、大連彩票の発行開始(1905年)から廃止(1915年)にかけての推移を辿りながら、(1)大連彩票について、『満日』がいかなる報道を展開したのか(2)大連彩票の発展について、『満日』はいかなる役割を果たしたのか、について検討することを目的とする。