総研大 文化科学研究

論文要旨

『絵本通宝志』にみる橘守国の作画法

―巻五上「太公望」を中心に―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  古明地 樹

キーワード:

橘守国、絵本通宝志、太公望、画題、狩野派、絵手本、画譜、絵本、粉本主義、賢聖障子

本論では、江戸時代中期の絵師、橘守国(延宝七(一六七九)年―寛延元(一七四八)年)画作『絵本通宝志』(享保十四(一七二九)年刊、以下『通宝志』)を、「太公望図」を中心に分析することにより、守国が行った作画方法を明らかにし、守国作品の位置づけを試みる。今回の分析から、守国の作図は画題が持つ複数の定型表現を取り合わせて行われていると推定できた。これは、守国が狩野派に学んだ知識を絵師の需要に即して変容させたものであると考えるものである。

近世中期以降、町絵師が増加することで、粉本に対する需要が増していた。狩野探幽の弟子である鶴澤探山に学んだ橘守国は、その需要に応じるように大坂で多くの絵手本を作成した。それらの絵手本は浮世絵師を含む町絵師に大きな影響を及ぼしたことで知られる。

本論で扱う守国画作の『通宝志』は、柏原屋より刊行された絵手本である。様々な画題を紹介し、人物図や和漢の故事画題に関しては解説を付す形式をとる。自序に従えば、守国は、作画の際に先例となる図様を粉本として用いるべきだと考えており、粉本として『通宝志』を手掛けたという。この主張は典型的な粉本主義と同種のものだと言える一方で、図様の中には先例から逸脱したものが少なくない。

特に、巻五上にはその傾向が強く表れる。巻五上は、狩野永徳以来宝永年間まで狩野派が描き続けてきた賢聖障子(けんじょうのそうじ)という画題を掲載している。賢聖障子とは、三二人の漢人物を描いた紫宸殿を飾る画題であり、守国が狩野派の粉本を目にしていたと推測される。しかし、守国が描く賢聖の図は狩野派画の賢聖障子資料と同一の構図ではない。

粉本主義の主張と、描いた作品の独自性という矛盾に対し、本論では「太公望図」を中心として分析を行った。その結果、太公望図には、舶載の漢籍などに由来する肖像画的な系統と、故事を絵画化した系統の二系統が存在することが判明した。また、守国の作画は両者を取り入れていることが判明した。これは賢聖障子の画題紹介をすると同時に、絵師の需要に即した図を守国が作画したものであると推測する。

このことから、『通宝志』巻五上から見る守国作品は、絵画領域において狩野派という雅文化の知識を、庶民文化へと普及させる一翼を担ったと考えられ、知識が庶民文化へ伝達される近世中期的特徴と一致するものである。