総研大 文化科学研究

論文要旨

『阿弥陀胸割』の成立背景―法会唱導との関わり

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  粂  汐里

キーワード:

説経、古浄瑠璃、阿弥陀胸割、厚婦、生き肝、法会唱導、身替り

中世末期から近世初期にかけて成立した日本の芸能には、寺院唱導の場で語られていた話を元にした作品が少なくない。仏教の教えをわかりやすく説くために語られた譬喩や因縁話は、口頭だけでなく経典の注釈書や談義書に所収され、写本や刊本でも流布した。すでに能、狂言、幸若舞曲の分野においては、これら譬喩や因縁話との関わりが指摘されているが、説経、古浄瑠璃の分野では、総括的な研究はなされていない。そこで小稿では経典の注釈書や談義書と関わりのある説経や古浄瑠璃について、隣接する芸能である能や狂言の動向を視野にいれつつ、『阿弥陀胸割』を例に報告した。

『阿弥陀胸割』は、天竺の幼い姉弟が、亡くなった両親を供養するために身を売る物語である。早く慶長十九(一六一四)年に、京都の仙洞御所や金沢での上演が確認され、説経・古浄瑠璃双方の台本が伝わっている。小稿では国文学研究資料所蔵の古活字版を中心に、『阿弥陀胸割』の類話と指摘される番外謡曲《厚婦》との比較を行い、《厚婦》が中世以前の譬喩因縁譚から『阿弥陀胸割』にいたる過渡期の姿を留めた作品であることを確認した。

次に、関連話である『今昔物語集』巻四の四十話、真福寺蔵『説経才学抄』、日光天海蔵『見聞随身鈔』、真福寺蔵『往因類聚抄』、といった法会唱導の場で享受された説話群と比較検討し、これらと『阿弥陀胸割』との共通点・相違点から、説法の場で語られた物語が、演劇へと展開してゆく過程を整理した。

さらに『阿弥陀胸割』の享受史を整理することで、幼い少女が身売りをし、阿弥陀が身代わりになる場面こそ中世以前の説話群にはない『阿弥陀胸割』の独自部分であるとした。キリシタンの殉教や、信濃善光寺如来の遷座といった社会状況をふまえ、この演出の着想が、繰り返し上演を見た慶長十九年という芸能環境と深く関わっていると推察した。