総研大 文化科学研究

論文要旨

植民地における筧克彦の活動について

―満州を中心に―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻  西田 彰一

キーワード:

筧克彦、神道、朝鮮、台湾、満州、溥儀、教化

筧克彦は独自の神道思想を唱えたことで著名であり、かつ数多くの植民地官僚や神社関係者、農業移民の指導者に影響を及ぼした人物である。しかし、これまで筧が植民地に対してどのように向き合ったのか、その活動を具体的に検討した研究はなかった。そこで、本稿では筧克彦の植民地における活動の事例を分析することを試みる。特に、これまでまとまった研究がない満州での活動を中心にその全体像を明らかにしたい。まず第一章では筧の朝鮮半島訪問から、筧の植民地に対する基本的な立場をみる。続く第二章では、台湾訪問の際の講演から、筧の植民地序列化の論理を検討する。さらに第三章と第四章では、最も大きな足跡を残した満州での活動から、筧が植民地に対して実際にどのような役割を果たしたのかを論じる。そして最後に、筧がなぜ植民地で内地出身のエリートたちに支持されたのかを明らかにする。

筧は内地と植民地を分け隔てなく考えた人物であるとされている。だが、基本的には(優れた日本対遅れた植民地)の二項対立にたっており、植民地の人々は教化の対象であった。彼の台湾での講演に代表されるように、筧は日本と植民地の序列をつくり、天皇崇敬の名のもとに帝国を統合しようと試みた人物であった。

こうして、筧は教化の立場から植民地と向き合っていた。それでは、筧は実際の植民地の問題に直面した時、どのように対応したのであろうか。これについては、「満州国」における彼の活動が最も参考になる。筧は建国大学の創設委員を務め、さらに彼は満州国皇帝溥儀に進講をしている。筧の考えでは、満州の文化は朝鮮よりも優れている。だが、台湾よりは劣るものであった(台湾>満州>朝鮮)。そして、満州移民は日本の精神を満州に伝える役割を果たすとされた。しかし、その一方で、実際に植民地と接する場面では思うような成果を発揮できていない。筧は建国大学の創設委員であったが、筧の思想は満州国の日本人官僚たちに拒絶された。また、溥儀への進講も、「満州国」をあからさまに日本の天皇の下に置くものであったので、到底受け入れられるものではなかった。

これでは、筧は結局植民地の実態に影響を与えなかったと看做すことができるかもしれない。だが、筧はその思想の固さ故に本土出身のエリートから信頼された。筧は天皇を仰ぐ日本古来の神道(古神道、神ながらの道)は生命すべてを天皇の下に輝かせる宗教であり、それを信じれば皆がまとまると戦後に至るまで一貫して主張していた。筧自身が植民地に抱いた率直な感想は優れた日本人対劣った植民地の人間というものであった。だが、そのように精神的に経済的に劣った植民地人であるからこそ、日本から来た内地人が模範として振舞い、教化しなければならないと説き続けたのであった。筧が植民地に与えた本当の影響とは、彼ら内地出身のエリートに自己正当化の知的枠組みを与えたことにあると言えるだろう。この「内向き」の知的枠組みこそが、却って彼らを勇気づけ、日本人のコミュニティーの中だけで通じる自己正当化のアイデンティティーの形成を手助けしたのである。