総研大 文化科学研究

論文要旨

第17号(2021)

歌合判者としての源顕房

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本文学研究専攻  花上 和広

キーワード:

源顕房、歌合判者、院政期、歌合の判定、顕房の二つの態度

源顕房は、土御門右大臣源師房二男であり、『後拾遺集』以下に十四首入集の勅撰歌人である。

本稿の目的は、顕房が判者を務めた「承暦二年四月廿八日内裏歌合」と「寛治七年五月五日郁芳門院根合」のそれぞれの判詞、並びに『袋草紙』『八雲御抄』『栄花物語』等に記された歌合に関わる顕房記事を検討することで、歌合判者としての顕房の活動について和歌史的な位置づけをすることである。

歌合判者になる条件は、身分の高い貴族であることや、重代歌人であることなどがあげられる。顕房は摂関家にも天皇家にも繋がりがある重臣であり、権門歌人として判者を行うのは、責務でもあった。

判者としての顕房の研究については、「承暦二年四月廿八日内裏歌合(廿巻本系)」の判詞を中心に研究が積み重ねられ、伝統に寄り添うばかりの判定や持が多いこと等により、その評価は低いものであった。しかしながら、『袋草紙』所引の判詞や周辺の歌学書等における顕房記事を子細に検討することを通して、評価できるところも見えてきた。確かに顕房は、歌合の伝統的なスタイルも守り、また持を多くするなどの判定をしたが、それは勝敗よりも歌合を融和的にすすめることを重んじたからである。

顕房は、若い時から「春秋歌合」等に参加し、方人などで活発に論難をし、その論難内容は回りからも評価されるものであった。歌合判者となり、その番いを判定するにあたっては、証歌をあげるなど根拠を示した判定をしている。また判定を下す前には方人たちと論難をするのは常のことであったという。時代の流れでもある論難の場(出席していた歌人たちに自由にして激しいやりとりの場)を設けたことも顕房の功績として評価されるべきである。

院政期という、歌合が伝統的で遊戯的なものから文芸性の高いものへと変わる転換期に、顕房は一方では歌合の伝統的な規範を守り、勝敗より左・右方の融和性を保つことに重きを置くとともに、他方では和歌の文芸性を高めるために論難する場を設ける、という二つの面を合わせ持つ判者であった。