総研大 文化科学研究

論文要旨

第19号(2023)

建部凌岱の画譜にみる来舶清人

―十八世紀の和製画譜における「中国」のあり方―

総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻  王  紫沁

キーワード:

画譜、絵手本、南蘋派、南画、建部凌岱、建部綾足、費漢源、李用雲、来舶清人、明清絵画

十八世紀の南蘋派画家が編纂した画譜は、狩野派系画譜から一変して漢画のみを取り上げるようになった。これらの画譜は『芥子園画伝』『十竹斎書画譜』など唐本画譜の内容・構成を参考しながら、新機軸も出しつつあった。特に十八世紀後半から十九世紀初頭にかけて出版された和製画譜には、来舶清人絵画を重視する傾向が認められる。和製画譜の出版・流通は来舶清人への評価と密接な関係があると考えられる。本論では南蘋派画家建部凌岱の画譜出版事業に焦点を当て、十八世紀後期の明清画受容にける来舶清人の位置付けを出版の視点から考察する。

建部凌岱(1719–74)は長崎を二度遊学し、沈南蘋の弟子熊斐に南蘋風の花鳥画を学び、また来舶清人の費漢源から山水を教わった。彼が江戸で出版した最初の画譜は『寒葉斎画譜』(1762)であり、本書のなかで南蘋派の粉本と中国画譜を参照した箇所が確認できる。二冊目の画譜『李用雲竹譜』(1771)は京都で出版された、来舶清人李用雲の墨竹図を模写した画集である。画譜には李用雲の肉筆画からの影響が見られるものの、凌岱独自の画風があることも確認できる。李用雲の墨竹は南蘋派内で学ばれ、作品は三都に伝わっていた。自筆の李用雲風墨竹を李用雲作として画譜にまとめることは、自分の竹図を宣伝しようとする凌岱の意図があったのだと考えられる。続いて出版した『建氏画苑』(1775)では沈南蘋を日本南宗画の首唱者とみなしており、さらに師の費漢源の書簡を掲載することで、作者の系譜を画譜の構成によって可視化させている。また『宋紫石画譜』(1765)など南蘋派系画譜と異なる画史観を提示したことによって、その南画系画譜への移行の形跡がうかがえる。遺作である『漢画指南』(1779)は『芥子園画伝』の体裁を模倣して、費漢源など来舶清人の画法を収録した画法指南書である。山水画家・南宗画家としての費漢源のイメージは本書の出版と流通によって強化され、広まっていった。

こうして来舶清人の絵画は和製画譜に収録されることによって教本化され、広く認知・学習されるようになった。一方、和製画譜にみられる来舶清人像は、実像と齟齬があるところもある。その背後には、中国画人に対する憧憬、およびそれに迎合する画譜作者の出版策略が働いていたと考えられる。ただし、それによって、中国美術史の外部にいる来舶清人は、日本で最新の中国美術の伝播者として広く認識されるようになったのである。