総研大 文化科学研究

論文要旨

第19号(2023)

オランダ東インド会社のアジア進出と日本への視座

総合研究大学院大学 文化科学研究科 日本歴史研究専攻  クレインス 桂子

キーワード:

オランダ東インド会社、平戸オランダ商館、ステーフェン・ファン・デル・ハーゲン、コルネーリス・マテリーフ・デ・ヨング、パウルス・ファン・カールデン、ピーテル・ウィレムスゾーン・フェルフーフ、ニコラース・ポイク、マウリッツ・ファン・ナッサウ、徳川家康、日蘭関係

オランダ東インド会社が最初にアジアへ艦隊を派遣した1603年からオランダ船が日本に初来航する1609年までのあいだに、オランダ側からの日本に対する働きかけはどのような経緯を辿ったのか。この問いを明らかにすることが本稿の目的である。

先行研究においては上記の問いが十分に明らかにされてこなかった。しかし、初期の平戸オランダ商館の活動を理解するためには、商館が設立された背景と経緯の解明は重要な意義をもつ。

本稿では、この時期に東インド会社がアジアへ派遣した四つの艦隊について、日本との関わりに着目しながら、その動向を辿った。このうち日本との接点がみられるマテリーフ、ファン・カールデン、フェルフーフの三つの艦隊の動向については詳細に検討した。調査対象史料としては、各艦隊の航海日誌をはじめ、各艦隊提督の書状・覚書や十七人会の決議録・指令書などを利用した。

オランダ側からの日本に対する働きかけの経緯について精査した結果、次のことが明らかとなった。

東インド会社はアジアへの最初の艦隊派遣時の早い段階から日本を交易対象国としてすでに認知し、1606年にはマウリッツの名前で日本の国主宛の書状を用意し、公式な国交開始の準備を整えていた。とはいえ、東インド会社の最大の関心はモルッカ諸島の香辛料と中国産の生糸にあった。東インド会社にとっての日本は、中国貿易を獲得できた後の渡航先としての二次的な目的地に過ぎなかった。アジア海域におけるオランダ艦隊は、中国貿易の獲得やスペイン・ポルトガルとのアジア各地での戦闘といった、より優先すべき課題に直面していたために、マテリーフも、ファン・カールデンも日本へオランダ船を派遣する状況にはなかった。

1609年にようやく日本へオランダ船が派遣される機会を得たが、その端緒となったのは、ヨーロッパ内の政治的状況であった。スペインとの停戦協定の交渉が始まり、オランダ東インド会社としては、協定締結前にできるだけ多くのアジアの君主との条約を結んで貿易拠点を拡大しておく必要が生じた。この差し迫った課題に対応するために、東インド会社上層部は新たな方針を伝える指令書をフーデ・ホープ号で発送した。指令書を受け取ったフェルフーフ艦隊がバンタムで拡大委員会を開き、その決議のもとに、ジョホールで待機させていた同艦隊所属の2隻を日本へ派遣することになった。

以上のように、東インド会社が日本へ初めて船を派遣したきっかけはヨーロッパ内の情勢によるものであり、平戸商館開設時は東インド会社側の日本貿易の基盤がまだ整っていなかった状態であったと言える。