第21号(2025)
総合研究大学院大学 文化科学研究科 元教授 小島 道裕 キーワード: 洛中洛外図屏風、歴博甲本、上杉本、花の御所、相国寺七重塔 「洛中洛外図屏風」は、京都の全景と共に、名所や祭礼行事、人々の生活を描く絵画であり、16世紀から18世紀にかけて多くの作品が制作された。筆者はその初期の諸作品について成立事情を研究しており、本誌第5号(2009年)に発表した研究ノートでは、記録にのみ残る、戦国大名朝倉氏が土佐光信に描かせた仮称「朝倉本」(1506年)について考察したが、関係する作品の研究が進んで、その位置づけを再考する必要が生じた。また、この問題と関連する、洛中洛外図屏風が相国寺七重塔からの眺望図が元になっている、という説について批判論文が出されたため、それについての反批判を行いたい。 相国寺七重塔は1470年に焼失しているため、「洛中洛外図屏風」に塔からの眺望が利用されたなら、それは「塔上からの絵」を介在させてのことになる。その利用という問題については、現存最古でオリジナルに近いと考えられていた「歴博甲本」(1525年頃)によって検討が行われてきたが、実は制作年代が下がる「上杉本」(1565年頃)の方が想定される「塔上からの絵」に近い。これは、「上杉本」が本来の幕府という意味で「花の御所」を描いているため、幕府が移動したことによって改変された「歴博甲本」よりも「塔上からの絵」に近いためである。同じ観点から考察すると、記録のみが残る「朝倉本」は「上杉本」に近いものだったと推定され、その直接の前提となったと見なせる。 「塔上からの絵」はおそらく景観を描いた絵に過ぎないが、洛中洛外図屏風の要素である、四季の祭礼行事や、町の様子という要素が加えられていったと考えられ、この過程についても、「朝倉本」がどのような段階にあったかという観点から考察することができる。洛中洛外図屏風が「塔上からの絵」から作られたことは、それ自体の問題よりも、このような洛中洛外図同士の系譜関係と、その成立過程を説明できることに意義がある。 |