総研大 文化科学研究

論文要旨

象徴主義移入期の芭蕉再評価

―野口米次郎のもたらしたもの

文化科学研究科・国際日本文化専攻 堀 まどか

キーワード:

野口米次郎、The Spirit of Japanese Poetry (1914)、『日本詩歌論』(1915)、象徴主義運動、俳句、松尾芭蕉、蒲原有明、上田敏、三木露風、国際交流

野口米次郎(1874-1947)はThe Spirit of Japanese Poetry(1914)、『日本詩歌論』(1915)において、日本の優れた詩歌の本質をあらわすものとして〈俳句〉を挙げ、とくに松尾芭蕉を最も崇高な詩人として紹介した。これらの著作は、ヴェルレーヌなどと同系列である日本人・野口の優れた詩論として捉えられ、当時の日本で高く評価されている。また、《俳句の愛賞者であり象徴主義者である》ということが聡明な詩人として当然であるという認識が示されている。〈象徴主義〉に〈俳句〉や〈芭蕉〉を並列するという構図が、なぜ当然の認識として受け入れられているのか。

象徴主義といえば、フランス象徴主義の受容の系譜が注目されてきた。また、日本の近代文学において〈芭蕉〉という存在が広く評価されてきたことも知られている。実は、日本近代文学が欧米の文学に影響を受けて確立していったことと、芭蕉など前近代の再受容とは、相互作用的に必然的に起こったものである。とくに、フランス象徴主義移入期に〈芭蕉〉が再評価されている構図は、とくに野口米次郎という英米文壇で評価されて一九〇四年に帰国した人物を中心に考えると、鮮明に理解できる。

本論では最初に、一九一四年の英国講演での講演が母胎となった『日本詩歌論』で、俳句や芭蕉に関して何が語られているのかということに触れる。野口は、芭蕉の紹介においてフランス象徴主義のステファヌ・マラルメや、英国の文芸評論家ウォルター・ペーターを対照するなど、当時の英国文壇の時代思潮を充分に意識した講演をしている。当時の欧米において、究極の短詩型である〈俳句〉には関心をもたれていたが、〈芭蕉〉については思想性や哲学性と共にしては考えられていなかった。野口は、芭蕉の哲学性を伝えたと同時に、俳句の象徴性や暗示性の美を論じ、テキストのもつ流動性や振幅性に価値が認められるという提言をした。

次に、このような野口の日本詩歌に対する認識がいつ始まっているかについて論じる。野口が俳句に関心に持ちはじめた幼少期と国際的詩人としての成功に至る青年期について、野口が過ごした日本とアメリカ西海岸の当時の文壇状況とともに、概観する。野口の幼少期における英文学体験は知られているところであるが、俳句や禅に対する関心や、当時の「文学界」の潮流を含めた時代状況については、これまで詳細に検証されてはこなかった。また、ボヘミアニズムの中心であったサンフランシスコ界隈で、野口がウォーキン・ミラーとその仲間たちに俳句や芭蕉について語り、ポー、ソロー、ホイットマンなどの吸収とともに芭蕉を再考していた野口は、同時に日本文壇とも交信をしていた。

続いて、日本の象徴主義移入の時代に、野口がどのように関わっているのかについて考察する。象徴主義移入においては、蒲原有明と上田敏が中心的な役割を果たすが、英国での文学的成功をおさめて帰国した野口が親しくつきあっていたのが、有明らである。また〈象徴詩人芭蕉〉を最初に宣言したのが有明で、それを展開していった次世代の象徴主義詩人が三木露風であるが、この時代に欧米の文壇と直接の交流を持っていた野口がもたらしたものは小さくなかったことを明らかにする。

日本の象徴主義は、《幽玄の運用を象徴》とすると日本的に捉えられたことから始まり、多層的な、拡大解釈しうるものであった。欧米においてもいえることだが、日本においても、象徴主義とはその後の文化社会に様々に浸透していった思想であるといえる。象徴主義理論の摂取を通して、自然の神秘や本能の不思議への関心、いいかえれば神秘主義や原始自然論、そして日本主義などに展開されてゆく思想史的な流れが自然とみえてくる。野口やその他大勢の文化人たちが、その潮流の中にあったといえよう。本論は、その象徴主義移入期当初の段階で、野口がいかにその時代にかかわり、存在感を持ち得たのかについて論究したものである。