総研大 文化科学研究

論文要旨

中世後期における四府駕輿丁の展開

―左近衛府駕輿丁「猪熊座」の出現をめぐって―

文化科学研究科・日本歴史研究専攻 西山 剛

キーワード:

四府駕輿丁 猪熊座 座 魚商売 北野祭礼 楽市楽座

これまでの四府駕輿丁の研究は、取扱品目の分析や、座の性格規定などに焦点があてられ、集団内部における動態的側面にはほとんど注意が払われてこなかった。

そもそも、通時代的に「四府駕輿丁」と一つの集団のように捉えられてきたが、左右近衛府駕輿丁・左右兵衛府駕輿丁が集合し、この呼称のもとで活動するようになるのは、米穀商売をめぐり本所押小路家と対立する十五世紀半ばのことである。

これを画期として彼らが採用する訴訟手段も職務放棄から身分放棄へと強化され、四府駕輿丁の社会的・商業的な地歩は固まっていったと考えられる。しかし、集団内部を見ると文安三年(一四四六)、享徳二年(一四五三)、天文十年(一五四一)、慶長十六年(一六一一)と長期的に内部対立が勃発する。とくに享徳二年に北野祭礼を舞台に勃発した内部対立では、内裏派と武家派に分かれ、対立するそれぞれに与力が合力して数万人規模の大争論に発展する。

本稿は、これら一連の内部対立に着目し、室町後期から織豊期における四府駕輿丁集団の展開過程を提示した。

そのような中で特に注目したのが左近衛府駕輿丁猪熊座である。この座は、天正六年、洛中魚商売分野の商人数は粟津座に次ぎ、三十五名の大勢力になっており、また天正 十六年の後陽成天皇の聚楽第行幸に際して、一座のみで三十名の出仕者を出したという伝承を持つ。

このように室町最末期では、四府駕輿丁の中でも他を圧倒する猪熊座だが、この猪熊座の初出は、四府駕輿丁全体が内裏派と武家派に分かれ全面的に対立をした享徳二年から僅か六年後の長禄三年なのである。猪熊座の初出とこの争論は時間的な接近からも無関係とすることはできない。 四府駕輿丁総体で頻発する訴訟を分析し、猪熊座が成立してきた背景の解明に取り組んだ。同時に、新たに勃興してきた猪熊座が、具体的にはどのような組織を実現させたのか、という組織論理の解明にも取り組んでいる。

また、猪熊座が室町後期から近世にかけて四府駕輿丁の中でも、突出する商業活動を行うようになった理由を広域流通商業の視点から分析し、洛中における商業者集団の有様を、四府駕輿丁を素材に提示した。