総合研究大学院大学 文化科学研究科 文科・学術フォーラム 2008

ポスター発表

ポスター発表

洛中洛外図から名所図絵へ―図像資料に見る京都認識―

発表者所属名
日本歴史研究専攻・国立歴史民俗博物館
発表者氏名
小島 道裕

「地域」のひとつとしての京都について、それを認識する手段と関心がどのように変化したかを、図像資料を中心に考えてみたい。 具体的には、京都の全景を描いた初めての絵画である洛中洛外図屏風から、大衆的な出版物としての地図と地誌が刊行されるに至る流れである。

京都の全体を描いた絵画が出現するのは、16世紀の洛中洛外図屏風からであり、それまでは、名所や祭礼、あるいは土地指図のような部分的なもののみであった。
16世紀はまさに日本における都市建設の時代であり、勃興する都市自体への関心や、その支配を誇示しようとする意図が洛中洛外図屏風のような大型の都市図を作らしめたと考えられる。
洛中洛外図屏風の初見とされるのは、1506年に越前の大名朝倉氏が作らせたものであり、現存最古の洛中洛外図屏風である「歴博甲本」は、京都を支配する細川高国が自らの事績を誇示するために作らせたものである。 応仁の乱後、近世に向かって新たな発展を始めた京都への、外からの眼と内からの眼が、洛中洛外図屏風を成立させた原動力だったのであり、安土や江戸などに至る「権力者とその都市」を主題とする都市図屏風が次々と作られていった。

しかし、このような都市全体を描いた鳥瞰図は、近世城下町等の都市建設が頂点に達した17世紀はじめをピークとして、次第に作られなくなっていく。洛中洛外図屏風では、東隻は鴨川の位置が下がり、東山の名所中心になっていく。すなわち、町の部分が簡略化されていき、ついには「洛中」が消えて「洛外(ないし洛東洛西)名所図」になってしまう。
そして、都市の全景ではなく、より身近な視点で個々の名所や祭礼を描いた絵画が増えていく。洛中洛外図屏風歴博E本は、洛中洛外図屏風でありながら、実は地誌(『京童』)の挿絵を流用している。 これらの図には、名所や祭礼などを見る観客/旅行者の姿も描かれていて、享受層を窺うこともできる。

一方で「寛永洛中絵図」のような、行政用の詳細な地図が作られた。都市の安定化と共に、支配者の関心は、都市を造り支配することから、具体的な都市行政へと移っていった。
これと平行して、江戸初期から刊行されるようになった平面地図は、当初は町の部分のみを描いていたが、次第に名所の絵が欄外に加えられ、色刷りとなって、観光地図的な要素を強めていく。
そして地誌は詳細化して、「名所図絵」として定着。全国的に同様の地誌が作られるようになり、全国の情報が共有化される段階に入る。
(図像資料についてはポスターを参照されたい)