総合研究大学院大学 文化科学研究科 文科・学術フォーラム 2008

ポスター発表

ポスター発表

仏事と医療―為政者の危篤時の対処をめぐって―

発表者所属名
総合研究大学院大学 文化科学研究科 国際日本研究専攻
発表者氏名
徳永 誓子

研究の目的

日本において、16、17世紀を境に、中世を宗教の時代と捉え、それに対して近世を「世俗的」な時代とする見方はほぼ通説となっている。織田信長以下の統一政権は、寺院神社の政治力、経済力を奪い、彼らを支配下に組み込んだ。それにともない、支配層が宗教的な指向ではなく世俗的な指向を優先するようになったと考えられている(林淳「日本宗教史における世俗化過程」他)。政治的、経済的な見地からは、寺社など宗教勢力の衰退は疑いようもない。しかし、支配者と宗教的な諸要素の関係に変化があったか否かについては、ほぼ論じられていない。平安時代以来、支配層の動向に影響を与えてきた密教修法や陰陽道、怨霊信仰などは、近世においてどの程度重視されたのか、また近世に影響を持たなかったのであれば変化はいつ、どのように進んだのか、これらを研究課題としたい。
この問題を考察するために、治療の場に注目する。平安時代以前から、治療に際しては、医師と宗教者(僧侶、陰陽師など)の双方が関与していた。医学知識技術に基づく医師の施術と、神仏などの霊力を統御して働きかける宗教者の祈祷は明確に区別されたが、どちらも有効なものと捉えられ、相互補完的に用いられた(繁田信一「医師・験者・陰陽師」)。こうしたあり方は、14、15世紀においても、ある程度継続していたとみられる。

今回の作業

1600年前後、織豊時代の末から江戸時代の初頭に亡くなった支配者について、その危篤時に寺社などの祈祷も含めどのような治療がなされたか、当時の日記を調べてみた。対象としたのは、豊臣秀吉(1537~1598)・徳川家康(1543~1616)・後陽成天皇(1571~1617)の3例である。
規模に相違はあるが、いずれの場合も、寺院や神社における祈祷、密教修法、陰陽師の祈祷などがなされた。これらは、前代の支配者、例えば室町幕府将軍足利氏の危篤時にも行われていた。ただし、その実態には変化が認められる。例えば、室町将軍の場合、平癒祈願の修法は、将軍の邸宅において勤修された。秀吉・家康の場合、高位の僧侶たちは京都にある自身の住房で修法を行っている。病人の住居ではない、天皇内裏で修法を行なう点も注目したい。これは室町時代以前にない現象である。また、室町将軍の場合、葛川(天台修験の霊場)で修行した行者を呼び寄せ、依巫(よりまし)を用いて怨霊の調伏を試みることがあった。これは病人を苦しめる原因が怨霊であり、宗教者が統御する神仏の霊力によってそれを退けうると見なされていたためである。宗教者が神仏の霊力をもって、病人に直接働きかける、このような行為は、秀吉らの危篤時の場合、確認できない。
以上からみて、近世初頭の支配層において、宗教者の「治療」が有効視されなくなったと考えられる。治療の実際は医師の手に委ねられた可能性が高いといえよう。

今後の課題

16、17世紀の他の事例についても調べ、今回の作業で導かれた見通しの妥当性を検討する必要がある。危篤や病気の場合に限らず、出産も格好の研究対象と考えられる。室町時代以前は、出産の際にも、多くの密教修法や怨霊調伏がなされたからである。また、今回指摘した変化がどのように進展したか、15世紀以前の事例も射程に入れて、考察しなければならないだろう。