総合研究大学院大学 文化科学研究科 文科・学術フォーラム 2008

ポスター発表

ポスター発表

明治期における千人結の成立について

発表者所属名
文化科学研究科・日本歴史研究専攻
発表者氏名
渡邉一弘

日中戦争開戦後、数ヶ月の間に全国的に爆発的に流行した千人針。その後、銃後の民俗として、出征に際して、なくてはならない習俗として定着していった。終戦後も、戦争の思い出とともに語られ、戦争の民俗を語るなかで、民俗学者による千人針の分析も加えられてきた。

大間知篤三・高崎正秀によると、当時の聞き取りでは、日清戦争から千人結が作られていたと記しているが、現在のところ、その確証は取れておらず、現在のところ、日露戦争(明治37年2月6日~明治38年9月5日)からしか確認できない。そこで、日露戦争時にどのような状況から千人結が生まれてきたかをこの時代性とともに分析する必要がある。

名称は、おおよそ千人力→千人結→千人縫→千人針という変化を見せている。最初の新聞記事を見ると、依頼するのが兵士自身の例があることから、出征する夫・息子に残される妻・母が贈るという構図はまだ定着していなかったようである。千人力の意味から考えると、当初、兵士自身が複数の女性たちにもらう結び目が何よりも人一倍の千人力を引き出す力となり、お守りとなったと考えられよう。それが女性から戦地の出征兵士に贈られるものになった。また、すでに多くの兵士たちが戦地へ出征した後に流行しており、千人結を出征に際して持たせる事例と戦地に送る事例がみられる。おそらく、次の流行となる満州事変・日中戦争になると、出征の事前に用意する準備ができ、戦地への発送する事例は少なくなるのであろう。

千人結の形状については、糸の色はまだ赤に統一されてはおらず、黒色なども用いられていたことが分かる。布については、白と黄色があり、ほとんどが腹巻用に使うくらいの長さを必要としていたことが分かる。なかには、雑巾などの小さな布の事例もみられる。千人の結び目を縫おうとすれば、ある程度の広さを必要とするため、小さな面積の事例は「千人」を「たくさん」の意味で解釈していると考えられる。千人結についての明治37年の記事はどれも迷信として解され、断る女性がいることや戦地で棄てられた事例が紹介されている。しかし、次第に親心や無事を祈る女性の気持ちが語られる言説が増え、日露戦争後、この戦争を振り返って、千人結という千人の女性たちが一心を籠めたお守りが流行したことが文字化され、語られることによって、次の戦争へと引き継がれたのであろう。

この千人結の流行が、日露戦争後、どのように満州事変へ引き継がれていったかは、後日、別項で整理することとしたい。次に日露戦争という時代になぜ千人結という習俗が登場してきたか、その時代の中で分析をしていきたい。

なぜ、千人結が流行したか、その理由は、大江志乃夫が指摘するように、明治6年1月10日の徴兵令布告以後、徴兵を忌避し、その後、徴兵令が改正されるたびに、忌避は困難となり、武運長久とともに弾除け祈願が行われるようになり、その一つの習俗として千人結があったと考えられる。この他、「恤兵募金」愛国婦人会、日露戦争時の弾除け信仰、愛国美談、五黄の寅年などを、今後、千人結との関わりの中でとらえていきたい。

テキストテキストテキスト

明治38年5月『風俗画報』316号(口絵)