総合研究大学院大学 文化科学研究科 文科・学術フォーラム 2008

ポスター発表

ポスター発表

黒駒と聖徳太子のイメージの展開

発表者所属名
日本文学研究専攻
発表者氏名
伊藤潤

本ポスターは、6月14日に大谷大学で開催された、日本宗教民俗学会・第19回大会シンポジウム(テーマ「地域(ムラ)をこえた信仰」)において、パネリストとしてし参加報告(題目「流伝する太子伝―黒駒と楽(がく)―」)したものを基底としている。前の学会シンポでは、そのテーマから稿者は聖徳太子の「巡礼・巡見」の話型と信仰(および信仰儀礼)が、太子故知の大和近隣はもとより、本来関係のない東北地方にまで展開しているという現象について報告した。結論としては太子が飛行自在の神馬”黒駒”に騎乗し、日本諸国を巡ったという伝承=「太子黒駒飛翔譚」を本説とし、その伝承を奉持した宗教者が伝承で語られている各当該地域に根付かせた、というものである。そこで本ポスターでは、この神馬”黒駒”と騎乗者・太子のイメージ展開について、その概略を報告したい(※なお、日本宗教民俗学会シンポジウムでの報告は、現在、同学会機関誌への掲載が予定されている)

[1] 「太子黒駒飛翔譚」とは

[引用元]-『聖徳太子伝暦』巻上・太子二十七歳条
(推古天皇)六年戊子(略)夏四月、太子命左右曰「求善馬并府諸国令貢」。甲斐国貢一烏駒四脚白者、数百疋中、太子指此馬曰「是神馬也」。余皆被還。命舎人調使麻呂、加之飼養。秋九月、試馭此馬、浮雲東去。侍従仰観、麻呂独在御馬之右。直入雲中、衆人相驚。三日之後、廻轡帰来。語左右曰「吾騎此馬、躡雲凌霧。直至附神岳上、転至信濃。飛如雷震、経三越竟。今得帰来、麻呂汝忘疲随吾。寔忠士也」。麻呂啓曰「意不履空、両脚猶歩如踏陸地。唯看諸山在脚之下」(略)

『聖徳太子伝暦』(正確な成立年代は不詳。平安中~末期成立か)の、巻上・太子二十七歳条当該箇所が基底となり、以降の太子伝テクスト類における黒駒に乗り、空を超えて諸国を巡る太子のイメージが形成されてゆく。

[2] 太子伝テクスト類における諸国・諸霊地を巡る太子像

太子伝において、黒駒に騎乗して巡る描写がなされるのは二十七歳条、三十三歳条、三十四歳条、三十五歳条、三十九歳条、四十二歳条、四十六歳条。そのうち「日本国諸霊地巡礼」の描写は二十七歳条と四十六歳条のみ。他は大和近隣をめぐる「領地巡見」である。

[引用元]-『聖徳太子伝暦』巻上・太子三十四歳条
(推古天皇)十三年乙丑(略)冬十月、太子遷于斑鳩宮。元居宮南因、為上宮。今謂斑鳩宮、猶為上宮是也。太子拝別、天皇垂涙、詔曰「朕雖為人主、唯憑皇太子。天下万機、日夕下行。而子遠別斑鳩宮。朕之所不快」。太子辞謝、奏曰「雖居別宅、臣何以敢離宿衛之下」。天皇大悦、賜宴、賜禄。太子此後、旦騎烏駒入奏政事、竟即還宮。日日無間、時人異之。
[引用元]-輪王寺本『太子伝』第五(文保本)(二七・ウ)
太子三十四御歳 冬之比十月ニ今ノ法隆寺ノ東ニ太子ノ宮ヲ建らレテ御遷宮有リキ。斑鳩宮ト申ス是也。太子、推古天皇ニ御遷宮ノ之由ヲ天奏シ給ケレハ、天皇涙ヲ垂テ、太子王宮ヲ去テ、遠ク他所ニ移リ給ヒケルヲ深ク御歎有リケレハ、太子、天奏シ給ハク「臣カ第一ノ重宝ニハ飛行自在ノ黒駒ヲ持テ侍レハ、宮中ノ私候、片時モ古ヘニ違スト」申サセ給ケレハ、天皇、大ニ悦給ヘリ。様々ノ録物ヲ奉リ太子ニ給ヘリ。

「霊地巡礼」と同様に「領内巡見」の際にも飛行自在の「霊異」を顕す「黒駒」像の確定

[3] 大和近隣に伝わる太子の「伝承」と「霊跡」

「聖なる遺物」としての「太子の足跡」

[引用元]-『聖徳太子伝私記』上巻(別名『太子伝古今目録抄』)
次、御足印一帖。衆生ニ為ニ遺法興滅之相ヲ知ろしめさんと御足之跡ヲ踏留メ給ヘリ。天王寺ノ九輪露盤ノごとし。惣引物壁代二帖。御足跡左右非一云々。(『聖徳太子伝古今目録抄』/荻野三七彦(編)名著出版・昭和五五年)

『七大寺巡礼私記』〈建長七年(1255)書写・東寺観智院本が唯一の古本〉、『諸寺縁起集』(護国寺本)〈康永三~四年(1344~45)書写か〉、『建久御巡礼記』〈乾元二年(1303)写本等、複数あり。鎌倉初期以来、『古事談』等諸書に引用される〉といった、巡礼記・縁起・説話類にも散見される。そしてこの「太子の足跡」のモティーフ(くわえて神馬に騎乗し近隣を巡見する姿)が、やがて新義律宗始祖叡尊周辺で制作されたと考えられる、『三輪大明神縁起』(弘安八年頃成立と推定)の「一 大御輪寺影観音事」において、三輪明神と武一原大納言の娘の間に生まれた子が、観音の化身であり、かつ「足跡」を残して姿を消すという「縁起」である。

古記云、彼大納言(報告者注…武一原大納言)孫皇子誕生給後、経七ヶ日、母儀早世。皇子成長之後、恋慕悲母之志甚切、寺内石上居、悲泣愁傷、爰感彼恋母孝情、化人出現、造悲母形而与皇子。皇子大悦、愁歎之思聊息、其後皇子常参詣父大神宮。其形顔白打出笠、白羽矢、夏毛行縢乗白葦毛馬。如斯多歳、御年十有余歳之時、永籠大御輪寺内一室、再不出給。此則日本国生身入定之初也。彼御影事、其形相実無知人、而聖徳太子参詣当寺、開御戸奉拝見御影御、即十一面観音形像也。(略)

さらに播磨国揖保郡(兵庫県揖保郡太子町)では、「太子の投げ石」・「斑鳩寺の傍示石」として、太子が神力をもって石を四方に投げ飛ばし、播磨斑鳩寺の寺領を定めたとする在地伝承がある。投げた石には、「太子の足跡」あるいは「黒駒の蹄跡」が残されているとする。

[4] 東北地方の「まいりの仏」にみられる「太子黒駒飛翔」のイメージ

東北地方(および甲信越の一部)にみられる民俗信仰儀礼「まいりの仏」には、黒駒に騎った太子の絵像=「黒駒太子像」を掲げる形態がある。五来重ら先学が、「信仰者の魂を、黒駒に乗った太子が極楽へ導く」という意味合いを読み解いている。また、その絵像制作・伝播を初期真宗の手のみによるものと従来考えられている。
しかしながら、「黒駒太子像」の中に、騎乗の太子の背後に立つ鬼神/異人を描く「異像」が存在し、その本説には、天王寺を中心として成立した『文保本太子伝』の、太子四十三歳条「蘇莫者譚」と、『善光寺縁起』「太子十六歳守屋合戦譚」の二系統の「太子伝テクスト」が関わっていることを稿者は明らかにしている(拙稿「太子黒駒飛翔譚の展開―まいりの仏における『黒駒太子異像』の形成―」(『伝承文学研究』57号・2008/04))。そこから、東北地方における異像を含む「黒駒太子像」の成立と、それに付随するであろう太子伝承の様相を、本説レヴェルからさらに慎重に考えなおす余地があると考える。