総合研究大学院大学 文化科学研究科 文科・学術フォーラム 2008

ポスター発表

ポスター発表

「比叡山不断経縁記」―末法の比叡山―

発表者所属名
日本文学研究専攻
発表者氏名
七田麻美子

藤原明衡作「比叡山不断経縁記」(『本朝続文粋』巻十一所収)は、永承六年(1051)に行われた不断経の縁起である。鎌倉時代初期に成立したと考えられている『濫觴抄』において、この不断経は、比叡山で行われた不断経の初めとされている。
しかし、実際には、比叡山における不断経は、永承六年以前より行われていたことが、容易に確認できる。では、『濫觴抄』の記事は誤りということになるのか、それとも、少なくとも鎌倉時代において、この不断経が比叡山における濫觴と考えられていたのか。
この問題は、そもそも不断経とは何かということを抜きに、解決することはできない。
不断経は、古くは天元年間(980年代)ごろから開催されていた。そのほとんどは宮中および貴族の邸宅で行われるもので、読まれる経は、『仁王経』、『般若経』、『法華経』など、その目的にあわせて様々である。
不断経の目的、それを一言で言うならば、現世利益ということになる。宮中で行われる国家安泰を祈願するものから、個人的な病気平癒を願うものまで位相の差はあるが、基本的な姿勢は同じである。
こうした不断経のあり方を否定したのが、永承六年の不断経である。

何ぞ況んや縁に随ひて請に応ずるの日、病に依りて験を祈るの時、妙文を読むと雖も、妙理を説くと雖へども、偏に効験の臻るを願求し、 菩提の道に廻向せず。已に隣財の心を類計し、還りて只だ後世の悔を招くのみ。

現行の読経(ひいては信仰そのもの)がひとえに効験を求めるものであり、菩提に廻向しないという状況において、一切衆生の救済のための読経を行う、それこそが永承六年の不断経であった。

若し一花一燈、近く供へ有る者は、証退に従らず、随喜に致らすべし。庶はくは塵埃の微を以て、嵩高の岫に加へ、庶はくは霧露の潤を以て、溟渤の波に添ふるべし。功徳不限、利益無辺。天衆神祇、善神護法。早に有習の眠より驚きて、速に無漏の覚を開かん。

この時、比叡山はその位置を霊鷲山に比す。

鷲峯より始め、天台に中り叡山に終わる。三伝の末山と云ふと雖も、三変の霊地に異ならず。

さらに最澄による開山を「一大事因縁」とし、釈迦の出現と同様の意味を持つとする。

釈迦如来の此界に出づるは、蓋し一大事因縁の故なり。伝教大師の我山を開くは、また一大事因縁の故なり。

これは、その権威を誇ろうとするため文飾ではない。永承六年の不断経は、霊鷲山において釈迦が説いた『法華経』を現世に表わすこと、特に「見宝塔品」の再現を目指すものであった。それを行う場としての意識が、比叡山の位置付けとなっているのである。
さらにこの不断経では「見宝塔品」の再現により、塔供養にも変化をもたらす。天台宗において、塔供養が密教化して久しい中で、この不断経では『法華経』を本尊とする塔供養を復元し、それにより現世に浄土を展開しようとするのである。
永承六年は、謂うまでもなく、末法に入るとされた永承七年の前年である。この年、比叡山において、『法華経』という原点に立ち戻って行われた読経、それがこの縁起で説かれた不断経である。
永承六年を比叡山の不断経の濫觴とするのは、こうした意義を認識した上でのことであろう。この年、それまでの不断経、さらには天台宗のあり方自体を刷新する、新しい法会がここに現れたということである。